○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ ・・・・・・単独行・・・・・・ =2/5= ◇◆
グリーンランド西沿岸の南の端に近いヤコブスハウンを出発して約1カ月後、ソンドロ・ウパナビックを出て北へと犬橇を進めているとき、植村はちょっとした手違いから犬たちに逃げられてしまった。 めざすウパナビック村までまだ60キロ以上ある。 暗闇と寒気と氷のなかに取り残され、さすがの彼も氷の上にへたりこんだ。
犬橇旅行で犬を失なうことは、直接、死の危険につながる。 彼は結婚したばかりの公子夫人の顔を思い浮べて心を落ち着かせ、橇を捨て、必要最小限のものをザックに詰めて、歩くことを決意する。 そのとき、リーダー犬のアンナが5頭の犬を連れて戻ってきた。 これで、とりあえず命だけは助かった。 6頭に減った犬に橇をひかせ、ウパナビックにたどり着く。町の灯の見えるところにテントを張り、植村はフラフラと歩いて町まで行く。 罐ビールを半ダース買ってテントに戻ってくる。 ヤケになって、何も考えずにビールを次々にあけ、いつのまにかそのまま眠りこんだ。 そして夜中に目が覚める。
《深い静寂があり、ときおり風の吹きぬける音だけが聞えた。 私は暖かいコンロの火を見つめながら、過去のことを想い出していた。 これまでも単独登山や単独の冒険行で、テントの中や雪洞の中で待機しなければならないようなとき、私はよく過去の想い出にふけり、それが一つの癖になった。 それは単独行にのみ許される、楽しく、ときには甘美でさえある時間だった。 今、楽しい想い出にふけっているような状況ではなかったにもかかわらず、なぜか過去の出来事が次から次へと脳裡によみがえってきた。》
そして彼は、主として4年間の世界放浪の旅での、印象深いシーンを思いだす。 思いだしながら少しずつ意欲をとりもどし、犬を補強して1万2000キロの旅をつづける決心をする。
テントのなかの孤独は、彼にとって限りない慰めであるばかりでなく、行動をつづける決意のみなもとでもあった。 ひとりでいることが、エネルギーが湧き出す、源泉でもあったということができる。
植村直己の単独行は、何に由来するのか。 彼自身が、それについてはっきり説明したことはない。 簡単に自分を解説してみせることは植村はやったことがない。 単独行についても、そんなに明快に説明できるものではないと、彼は思っていたであろう。
他人がいろいろ推測してみることはできる。たとえば、彼の性格をふくめて、その個性に由来する、などとまことしやかにいいたがる人がいるかもしれない。 しかし、私自身は、個性に理由を求めるような推測はもっとも怪しげなものに思われてならない。
そんなふうに、単独行の理由をすぐに探し求めるのではなく、つまり出ない答えを下手に求めるのをやめて、彼の単独行がどんなふうに行なわれたのかをゆっくりと追いかけてみるほうがよいのではないか、と私は考たい。
1964年4月、明治大学卒業後すぐに、植村はたった4万円(110ドル)を手に、海外に出た。 まず、アメリカのカリフォルニアの農場でアルバイト。移民調査官につかまって、国外退去を命じられた。 植村はアルバイトで得た金によって、船でフランスに渡る。 これが1000日に及ぶ世界放浪の旅の始まりであった。
この世界放浪をつぶさに語ったのが、『青春を山に賭けて』(文春文庫)である。 本のなかで放浪の足どりを追っていくと、どんな登山や冒険行でも、「ひとりが気楽でいい」とつぶやいているような植村に出会う。
氷河を見たい一心で、ヨーロッパのアルプス(フランス側)を目ざし、山麓にたどりついた。
《私はケーブルの廃駅に入った。 シャモニ谷をはさんで、対岸のエギーユ・ルージュの岩山が見える。駅で泊まることにした。 寒気と風をよけてひとり細々とストーブをたく。 冬に黒部から立山を越えて弥陀ガ 原へひとりで下った山行を思い出していた。 シュラフの中で夢うつつに思い出にふけるのはなんとすばらしいことだろう。 何ひとつ寂しくはなかった。》
ここで早くも、極北の大氷原でひとりテントを張って停滞するときの、あの無上の喜びが語られているのに注目したい。「ひとりでいい」のではなく、「ひとりがいい」のだ。
翌朝、植村はモンブランの頂上から下っているボッソン氷河を歩きはじめる。 もう少しで氷河を渡りきるというところで、新雪に隠されていたクレバスに転落した。 背中のザックと、アイゼンの爪が氷壁に引っかかって、植村は無事クレバスから這い上ることができた。
=補講・資料=
北西航路(北大西洋)=1/4=
記録に残っている中で、北西航路を発見しようという最初の試みはジョン・カボットによる1497年の航海である。 イングランド王ヘンリー7世はカボットをオリエントへの直通航路を探すために派遣した。 1576年、イギリスが派遣したマーティン・フロビッシャーは北西航路を求めてアメリカ北部へ3回航海し、カナダ北極諸島に達したが先には進めなかった。 バフィン島南部のフロビッシャー湾は、この地に到達したフロビッシャーの名に由来する。
北西航路の発見の可能性についての論文の著者でフロビッシャーの後援者でもあったハンフリー・ギルバートは1583年、北大西洋を横断してニューファンドランド島をイギリス領と宣言した。 1585年8月8日、イギリス人探検家のジョン・デービスはバフィン島の東部のカンバーランド湾に入り、バフィン島とグリーンランドの間のデービス海峡の通過に成功した。
北アメリカ東海岸には大きな河口や湾が多く、これらが奥で北アメリカ大陸を横断する海峡につながっているのではないかという期待もあった。 ジャック・カルティエのセントローレンス川探検も、当初は大陸を横断する水路の発見を期待してのものだった。 カルティエはセントローレンス川を北西航路だと信じようとし、モントリオール付近で急流に行く手を阻まれたときにはこれが中国(フランス語では、la Chine)への道を阻むものだと考えて「中国の急流」と名づけた。 これが現在のラピッド・ドゥ・ラシーヌ(Rapides de Lachine)と呼ばれる急流地帯である。
ヘンリー・ハドソンはイギリス東インド会社やオランダ東インド会社などに雇われ、北西航路や北東航路を求めて何度も北極海や北アメリカ沿岸の探検に挑んだ。 ハドソン川も1609年に東海岸探検の過程で発見されたが、これも太平洋に続く水路ではなかった。 1610年には再び北極海に挑み、「怒り狂う逆波」(Furious Overfall)と呼ばれた流れの激しいハドソン海峡を越えてついにハドソン湾に達したが、氷に阻まれこの先に進むことはできず、ハドソン自身は船員の反乱にあい船を降ろされ行方不明となった。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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